育児に参画している

子ども自身はうそをついているつもりはなく

赤ちゃんでも大人でも、この原則は同じです。それでは家族のとは、一体どうしたら実現できるのでしょうか。家族の和は、自分中心では得られないものです。一人一人が自己中心的に楽しがっているだけでは「和」にはなりません。相手のこころの美しさ、幸福、よろこびなどを自分がよろこべるこころが「和」です。幼児がやりたがったときが一番の好機です幼児は

育てのために

対象がダイヤモンドであったり、美しい景色であれば、その美しさが自分のよろこびになることはだれしも経験していることです。対象が「ものであれば、これは簡単でわかりやすいことなのです。ところが相手が人間となりますと、相手の幸福やよろこびを自分の幸福やよろこびと感じとることはなかなかむずかしいものです。家族であれば、アカの他人より身近にいる分だけ、家族の幸福を自分の幸福としてよろこべるはずです。家族の幸福を優先してよろこぶのが自然な本来の道筋です第四話でも少しふれたことですが、不幸の原因のほとんどは人のこころが淋しいことにあるとも言えます。


子どもに当てはめてしまう事です
子どもに当てはめてしまう事です

幼児たちの方が一

子どもに対してこの事を踏まえて、喧嘩や大切な人の死を経験した事の無い子供に、戦争の悲惨さを言葉で説明して理解できるでしょうか?そうした経験を積んでいない子供が、戦争映画を見たら「カッコイイ」と思ったりします。だからこそ「戦争ごっこ」をしたりするのです。また、人間は生まれながらにして人間では無く、人間になれる者として生まれて来るのだと思います。人間になれる者と言うより、現代人社会で生きて行ける人間になれるか?と言った方が正しく伝わるかと思います。言葉を持っていなかった頃の人類も人間ですからね。子どもだって焦ります違う表現をするなら、猿、、人を経ずに人類には成り得なかったのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、二足歩行も出来ず言葉も知りません。つまり、猿や原人変わらないのです。その赤ちゃんが人間になる為には、母体の中で生命の歴史を辿りながら人間の形になるように、生まれてから人類の歴史を辿りながら成長する必要があると考えられるのです。人間は受精した時から人間の形をしている訳ではありません。

幼児を自分のひざの上に座らせているお母さんがふぇましたが近頃はまた

学校は勉強するところときめる。夕食前の勉強である。家庭でも、勉強は食事の前を建前とする。後より能率のいいことうけ合いである。私は二十年来、食事の前に仕事、食事をしたらぼんやりする、を日課としている。まず、朝食を抜く。こうすると、ひるまでの時間がすべて朝飯前になる。


幼児は希望をも失ってしまいます
幼児は希望をも失ってしまいます

育てあげれば

どんなに朝寝坊しても111時間やそこいらは朝飯前の仕事がで帰ったら、夕食までの11時間でもかならず机に向かうようにしている。やはり仕事がはかどる。その代わり夜の食事をしたらもう何もしない。ぶらりと夜の散歩に出かけて、明日の朝飯前に期するのであるそういう生活をしている人間から見ると、いまの学校が食事について無頓着でありすぎるように思えてしかたがない。せめて昼食を1時に繰り下げるくらいのことはできないものかサクラとウメこどもを育てるのに、叱った方がいいか、放任主義がいいか。これがよく問題になる。かったからと言って、次の子は言うなり放題にしたら、やっぱり成功しなかった。教育を終わる年齢